プロフェッショナルに聞く、
BIG AQUOS

プロフェッショナルに聞く、
BIG AQUOS

映画の作り手から見た
大画面テレビが家庭に
もたらす新しい世界

映画監督

大友啓史

大画面のスクリーンで繰り広げられる圧倒的なダイナミズム。
光と影、色を駆使して作り出す繊細できめ細やかなリアリティ。
映像のプロフェッショナルが見た大画面AQUOSの魅力とは。

インタビュームービー 02:47

映画監督大友啓史

1990年NHK入局後、『ハゲタカ』『龍馬伝』でドラマ界に衝撃をもたらし、2011年独立。『るろうに剣心』『プラチナデータ』『3月のライオン』などが次々にヒット。2020年2月には『影裏』が公開、2020年夏には『るろうに剣心』最終章が2作連続公開される。

ディテールそのものを
映像で楽しめる

今、映像を観ていただいた感想をうかがえますか?

ディテールがすごくはっきり見えますね。作り手の立場で言うと、映像作りってディテールをどう作っていくかなんですよ。ディテールをどういう風に見せていくか、もしくは見せないかをとても意識しているんです。見えるところはできるだけクリアにして、詳細に素材感などが細かく見えれば見えるほど、逆に見せないところとの落差がすごく大きくなる。このコントラストが、映像としての豊かさにつながります。このテレビは、そうした細かいディテールやそのコントラストがしっかり見えるので、我々が作った世界をまるごと映し出せるなと。ディテールそのものを映像で楽しむ時代がいよいよ来たなということを、痛感しましたね。

色や光の再現性などはいかがでしたか?

基本的には黒の再現度がポイントだと思うんです。特に日本人は髪も黒いから、画角に占める割合って黒が多くなるので、黒のディテールがどのくらい表現できるのかというのが勝負なんですよ。黒のグラデーションが出るということは、他のもっと分かりやすい色も当然多様に表現できます。グリーンなども特にそうですね。日本だともともと緑の色を表現することで違う言葉がいっぱいあるわけです。よもぎ色とか薄緑とか、いろいろな言葉がいっぱいある。そのぐらい緑というのは豊かで、同系色だとしても1色ではなくて、ものすごくいろいろな色があります。そのグラデーションが楽しめるというのが、色のポイントかなと思うんです。

グラデーションの幅が広がって、色の豊かさが広がることで、映像って素直に豊かになりますからね。ひとつひとつの色のグラデーションが豊かになることで、1枚の映像そのものがどんどん豊かになっていきます。それは緑だけではなく、当然水の色の青とか、赤でもそうです。世界はそういう豊かな色彩でできている。そうした自然の中にあるものとても豊かな色彩を、よくここまで表現できるなと感じましたね。

映り込みが少ない反射のしにくい液晶を採用していますが

それはものすごくありがたいですね。映画館のようにできあがっている環境とちがって、リビングなどでは、明かりのコンディションというのも、まるで変わりますからね。明かりが映り込んだり、観ている人間が映り込んだり、周りの環境が映り込んじゃうとシンプルに邪魔ですからね。作り手としてはうれしいことです。映像に集中してもらえますから。

全体的にスタイルも含めて、観る人に没入してもらうことを考えているんでしょうね。余計な装飾もないし、画面、フレーム自体が中心になっているし、映り込みもないし。僕が映画でどういう風にお客さんと向き合ってもらうのかを考えるのと同じように、リビングでどういう風に観てもらうかということを、明確に出して作られたデザインと機能なんだろうなということを思いましたね。

作り手の気持ちが
伝わっていく映像

こうした進化は映像の作り手としてはいかがですか?

夜のシーンなどで違いが出ますね。例えば僕がやっている『るろうに剣心』なんかだと、夜の戦いですね。あの時代の武士の服装ですから、明るい色などはなく、闇に沈んでしまう色が多いんです。その中でアクションを繰り広げると、闇の中では速い動きを追いかけられないわけです。かつての液晶だと、動きが流れて見えなくなっちゃうし、しかも色が闇の中に溶け込んでしまうから、すごく見づらかったんですよ。

闇の中での芝居とか、闇の中での人の動きとか、そういう見えづらいものを豊かに伝えるためには、黒味のグラデーションがどのくらい潰れずに出るかということが本当に勝負なんです。それによって、暗いところと明るいところの差が出て、映像の奥行きが何倍にもなります。黒と白の2階調だけではなくて、黒にもいろいろな階調があり、白にもいろいろな階調があります。奥行きというのは、それでどんどん広がっていくわけですよね。映像に奥行きが生まれてくると、やっぱりおもしろく観られますよね。

このぐらいの映像を日常的にリビングで目にするようになると、視聴者の映像に対する理解や欲求などがどんどん高まってくるだろうと思います。僕らがどういう意図で映像を作っているのか。つまり平面的な画ではなく、なんでこの映像はこんなに豊かなんだろうっていうことに無意識に気づいていくと思うんですよね。

視聴者の見方も変わってきますか?

日常のリビングで観る映像は、普段目にしていく映像なので、視聴者の要求が高くなればなるほど、日本の映像技術の表現レベルってどんどん上がっていくと思うのです。これぐらいの画質のテレビが出てくるというのは、僕らにとっては腕がなります。奥行きを出すために、ディテールを作っていくために、そこに目を向かせるためにどれくらい苦労しているかといった技術的なことについても、視聴者がもしかしたら気づいて、関心を持ってくれるんじゃないかなどと思いましたね。まだまだできるなと、画を作り込むことによって、いろいろできるぞという感じですね。

映画は大画面で観ますから、こちらの不手際、不用意も含めて、すべて可視化されていきます。家庭用のテレビが、このぐらいの大きな画面で、これぐらいのディテールで、日常のレベルになっていくと、これはいい加減なことができませんね。逆に視聴者としては、映像や作り手の意図を味わいつくせるので、すごく楽しみになってきますよね。雑な作り方をすると、あっという間にそれがバレちゃうかもしれないし。作り手と視聴者のキャッチボールが、映画館と同様により濃密にできるようになるかもしれないですね。

いかに見せないか、
にこだわる

作品作りの際にこだわっているのはどのような点ですか?

僕がいつもこだわっているのは、いかに見せないか、なんです。いかに見せないか、もしくはどこに集中して観てもらうかというのを、常に意識しています。クリアに見せるところはものすごくクリアに見せつつ、見せなくていいところは、照明で暗くしたり、陰影をつけたり、逆に強い光源を当てて白を飛ばして見せなくしたりとか。表情もあえて見せたいと思うところは逆光にして見せないといったこともします。僕は見えないというのは、ちょっと艶っぽいと思っているんです。

あえて見せるべきところを見せないで、ちょっと別のところを見てほしいとか。あえて画を見せずに、画はあえて暗くして、音だけに集中してもらうようにするとか。人間の感覚って不思議で、画と音の関係で、見えるものと見えないものって変わってきますからね。音がつくことでより見えるもの、音がなくなることでより見えてくるものがあったりするので。

音の話題が出ましたが、サウンド面はどのようにお考えですか。

例えばこういう川の映像でも、すごい水量で耳に聴こえている水の音以外にも、ちょろちょろちょろという小さな流れの音など、本当は幾層にも川の音があるはずなんですよね。それが大きな音に隠れて耳に入ってこないだけで、でもそういう厚みも作ろうと思えば作れるんですよ。100種類ぐらいの音を集めて、どんどん音のグラデーションを作っていくんです。いちばん聴かせたい音を立てて、それ以外の音を少しずつ静めていく。それによって、音の厚み、聴こえ方って全然変わってくるのです。

このテレビのスピーカーも音が前に向かってきて、特別なスピーカーをつけなくてもいい基準を満たしていますよね。だから、たぶん音量的にも音響的にも、観る側、聴く側のレベルや、楽しみ方などが変わってくるなと思います。音のレンジをどのくらい広げられるかって、テレビは戦ってきたと思うんですよ。どうしても低音が潰れたり、高音が叩かれたりというところで音域が狭くなっている中で、テレビの演出ってすごく苦労したところもあるんです。そこの音域がダイナミックになればなるほど、音も重層的に作れますしね。これをどういう風に使うかという、また新しい知恵がこっち側に投げられている気もしたりするんですよね。そういう音をめぐるキャッチボールも、作り手と見る人との間で新たに生まれてくるかもしれないですね。

映画は特別な
イベントだった

映画が小学生ぐらいのときからお好きだったそうですが、どういったところに惹かれていたのでしょう?

テレビと違って、わざわざ映画館に行き、家族だけではなく、他の人と同じ時間を暗闇の中で共有するというところが、僕にとってはイベントでしたね。家族とか、兄弟とか自分ひとりで観るのではない、そこにいろいろな人が集まり、その人たちのリアクションもその場で感じることができる。時間を共有したり、場所を共有したりというのが好きだったんでしょうね。逆に中学生、高校生ぐらいになって、多感になって、いろいろなことで思い悩んだり、面倒くさいと思うことが多くなってくると、そこが逃げ場になったりするじゃないですか。ひとりで暗闇の中で、自分の存在を消していくことができる。それでいて、日常のブラウン管で流れないような、世界中の映画が観られて。まさに自分が今いる場所とは違う場所に行くことができる、違うものを感じることができるので、シンプルにそれがおもしろかったですね。大学の頃はバブルで、ミニシアターを含めて、世界各地の映画が観られましたね。あのとき世界で一番いろいろな多様な映画が観られるのは東京だって言われていたぐらいですよね。

映画好きが高じて、NHKに入られたんですか?

実は映画を自分で作ろうと思ったことはなかったんです。NHKに入って、目の前の仕事をなんとなく一生懸命やっているうちにいろいろな出会いがあって、今はこうして映画を作っているという感じなのです。NHKに入ってからは、どちらかと言うとNHKスペシャルとかね、そういうジャーナリスティックなものを作りたいと思っていたので。その後ドラマを作り始めたんですけど、また出会いがあって、ハリウッドに行くことになり、いろいろなものを見て、映画はやっぱり豊かだなということを感じました。自分の中で埋もれていたものを、引きずり出されたみたいな感じですね。

テレビって、まんべんなく明かりを当てて、ビカビカのライトの中でとにかく自分の思っていることを全部セリフで語って、観ている人にわかりやすく伝える、そういう文化、考え方がベースなんですよね。まさに日常と横並びのメディア、という発想で作られているんです。それをどういう風に映画的に、映像的にもっと魅力的なものをということは、キャリアの中ですごく意識してやっていました。その延長線上で、作り手にとっては、映画の大画面で暗闇で集中して観てもらえる方が、映像は幸せなんだなということになんとなく気づいたんです。それが、テレビから映画の方を作り始めたいくつもある理由のうちのひとつですね。

もう一度気合いを
入れ直さないといけない

映画とテレビでは作り手として違いがありますか?

そうですね、画作りというのは、例えばシーンごとに色を変えたりとか、1本の映画の中で色の構成や、シーンの意味合いに応じて、大きく色のストラクチャーを変えていくとかは当たり前なはずなんです。テレビはそういうところまでできないことも多いですから、それをやれる環境は、やっぱりテレビよりも映画なんだなと思ったんですよね。

ただ映画に来て10年弱ですけど、それで言うと、どんどんテレビが大画面化していって。しかも映画という時間軸では作れないものを、テレビでやるわけですよ。連続ドラマとか。2時間でしか表現できないものを、テレビドラマは1時間×10本、10時間で表現できるってことになるし。

しかも、このぐらい大画面になって、まさに視聴者の映像に関するレベルも変化してます。女子高生でも、自撮りして、自分をどうやってきれいに撮るかってことにすごく敏感になっています。これだけスマートフォンの時代になってくると、ユーザーの感度もあがってくるから。そことキャッチボールしていくということで言うと、こっちもどんどん変わっていかないといけないと思います。スマートフォンと映画の間にあるものは、大型化してくるテレビだなと思っていて、どんどん映画に近づいていくだろうと。実際、方法論としては、もはや遜色ないレベルで作られているものも少なくないですからね。映画は体験ですよね。音も映像も浴びるという感覚に近い。まさに大画面で、家で映像を浴びる時代になってきます。それは本当に映像の受け手になる人たちの感覚も間違いなく変えていくから、それに関して作り手側も指をくわえているわけにはいかないという感じですね。

家庭の環境が映画に近づいていくということについて、作り手としてはどのように感じますか?

これだけの再現性がテレビであるとしたら、劇場でまた観るのとほぼ同じような感動というのを自宅でも体感できるのは間違いないですよね。こんなこと言っちゃうと、映画側の人間としてまずいな(笑)。実際問題、映画館の方がボロの出ない面もあります。大画面で、音とかいろいろなことがごまかせちゃうんですよ。

ところがこのテレビで観ると、特にVFXとかかなり粗が出るでしょうね。昔の映画などは、この技術で観ちゃうと、技術が稚拙だともろバレになっちゃう。VFX領域だと、もうひとつ知恵とか技術がいりますね。これだけ優れた再生機があると、映画館よりも作り手にとってはこっちで観てもらう方がハードルは高いんじゃないか、というぐらい。だからやっぱりこれで観てもらうこと前提で作った方が、技術って磨かれるんですよ。

劇場映画の作り手の僕らとしては、非日常的な映画館だからごまかせていた映像が、大画面になって日常で観てもらうということは、やっぱりもう一度気合いを入れ直さないといけないくらいの感じですね。映画館で終わりという作品はほとんどなく、二次使用、三次使用で、ほとんどその後にテレビやネットで観られます。つまりアウトプットはこういう画面になってきます。映画館で観られて終わりではなく、日常の中で観てもらうということを考えて作っていかなきゃいけないなということをあらためて思いましたね。

違った価値観の持った人と
一緒に作りたい

最後に、これからの時代の監督の作品づくりをどうしていこうかといった意気込みはありますか?

去年撮った3本の映画が、来年一挙に公開(2020年2月に『影裏』、夏には『るろうに剣心 最終章』が2作公開)なので、次というのはまだあまり考えていないのですが。自分が作った映像は、配信なども含めてふつうに海外で観られるようになっています。ハリウッドや韓国や中国など、それぞれの国での映像の方法論や個性の違いをしっかり取り入れた方が、日本の映像づくりは豊かになる気がしています。ちょうど10年くらい日本の映画界のエンタテインメントを中心にアウトプットしてきたので、ちょっと海外の人といろいろやってみたいと思いますね。美意識自体が全然違うから、もしかしたら美しいと思う映像の基準も違うかもしれないし、おもしろいと思う基準とかも、全然違うかもしれないですよね。

日本国内だけの価値観だけではなくて、当然いろいろな価値観を踏まえて作った方がおもしろい気がするんですよ。僕が昔映画館にひとりで行って、ちょっと背伸びして、ベルトルッチ(ベルナルド・ベルトルッチ)とか、ゴダール(ジャン=リュック・ゴダール)などの難しい映画を観て、「なんだかわからないけどすごい」みたいなことがあったんです。シンプルにすごいと。シンプルにすごいと思うものは、理屈でもすごいと思うんですよ。理屈は後からついてくるので、大人になってきてから、なんですごいか、こういうことだったのかとはわかるんですけど。中学2年生の僕がなぜベルトルッチの映画にこんなに反応していたんだろうか、というのがやっぱりおもしろいんですよね。自分の見たことのない世界とか、知らない世界とかそういうものに触れたからという。そしてそこに、ヴィットリオストラーロのような、優れた撮影監督による確かな映像技術が存在しているんですよね。

もともとテレビジョンの語源って、そういう言葉ですからね。「遠くを見る」っていう意味であって。今そこにいながらにして、自分とは全然違う遠くにあるものを見ることができるという。宇宙を見られるようになった、地球の裏側が見られるようになった。しかもドラマとかの表現で言うと、人の心の奥深くまで見ることができるようになったという。そういうことがいろいろな国によって、いろいろな文化によって、いろいろな価値観によって、それすらも変わるかもしれない。見たいものというのが、立ち位置を変えると、日本で見たいものと、アメリカに行って見たいものって違うのかもしれない。

海外の人たちが今日本にすごく着目をしていて、僕たちが当たりまえに知っていることに対して夢中になっている人がいっぱいいるわけです。立ち位置を変えると、全然違うものが見たくなる気がするんですよね。日本の優れた技術とかをどういう風に使ってやっていくのか、逆に海外のおもしろい技術、考え方の刺激を受けて、どういう風に自分自身が変わっていくのかなどを体験してみたいなと思っています。

お近くのお店で大画面の
BIG AQUOS 4Kを
体験してください